クロニクル
政治西郷吉之助、薩摩藩士の身分を伏せた旅姿で鹿児島を発ち、海路を経て江戸へ向かう。携えるは島津斉彬の書状一通と、諸藩の志士を説くための弁舌のみ。
政治老中阿部正弘、将軍継嗣問題を先送りにできぬと判断し、紀州派・一橋派双方の重臣を評定所に招集する。しかし議論は紛糾し、阿部は結論を次回へ持ち越した。
政治水戸の徳川斉昭、老中への攘夷建白に飽き足らず、独断で諸藩の尊攘派藩士へ密書を発する。「幕府が決断せぬならば諸藩自ら夷船を撃つべし」との過激な文言が江戸市中にも漏れ、物議を醸した。
経済集成館の鉄師たちが交代制の昼夜作業を始めて三週が過ぎた頃、第二反射炉の築炉が完了し試験溶解に成功する。鋳造した試作砲は口径不均一の難点を残すが、鉄の溶融には問題なく、職人の習熟が急速に進んでいることを示した。
政治西郷吉之助、江戸に着いて尾張藩の藩邸付家老に接触し、「英邁なる一橋慶喜公こそ外夷に対するに足る器」と説く。尾張家は内々に同調の色を示しつつも、明言を避けた。
外交薩摩藩の勘定方役人が佐賀藩の精錬方担当者へ非公式の書状を送り、「鉄原料の競合を避けるために職人の相互見学を行いたい」と申し入れる。鍋島直正は直ちに返書を認めず、数日の沈黙の後に「主君の意を仰ぐ」と回答した。
戦争仙台藩領内の下級武士ら三十余名が、陸奥の海岸に寄港した唐物廻船を「異国の密偵に違いなし」と断じて拿捕を試みる。廻船は大坂の商人のものと判明し、藩当局は武士らを軟禁して事を収めたが、領内の不穏な空気はいよいよ抑えがたくなっている。
政治孝明天皇、廷臣の勧めにもかかわらず宸翰の正式発布を再び見合わせた。しかし関白鷹司政通を通じて「勅旨は攘夷にあり、幕府は速やかに奏聞すべし」との意が老中阿部正弘に内々に伝えられた。
経済佐賀の精錬方職人二名が長崎を経由して鹿児島に入り、集成館の炉前で薩摩の鉄師と一週間の共同作業を行う。蒸気機関の原理は共有されなかったものの、鉄の精錬温度の管理法について実務上の交換が成立し、薩摩の職人の技術水準が底上げされた。
政治西郷吉之助、越前藩邸に松平春嶽の側近と面会し、一橋慶喜擁立への同調を求める。春嶽側近は「主君の判断を俟つ」と答えるにとどまったが、西郷の言葉が春嶽本人の耳に届いたことは確かであった。
戦争長州藩、馬関海峡を通過する外国船の動向を監視するため、下関砲台の砲架を補強し火薬庫を増設する作業を開始した。藩論は「海峡は我が藩の咽喉なり」で一致しており、工事は昼夜を問わず進んでいる。
経済琉球の薩摩代官所から鹿児島へ早船が着き、フランス商人ラニエルが那覇で再び接触を求めてきたとの報が届く。ラニエルは蒸気船の売値を当初より二割増しで提示し、「英国商人も同じ船を欲しがっている」と競争を示唆した。
政治老中阿部正弘、ついに将軍継嗣について評定所の合議を打ち切り、一橋慶喜と徳川慶福の両名を候補として幕閣の内議に付すると布告する。決定は先送りされたが、一橋派が僅かに優位に立ったとの観測が江戸城下に広まった。
政治水戸の徳川斉昭の密書が長州藩士の間に読まれ、藩内の尊攘派が「斉昭公の義挙に呼応すべし」と声を上げた。藩庁はこれを抑えたが、藩論の振れ幅が大きくなっている。
不穏土佐藩内部で「静観派」と「攘夷派」の対立が再燃し、家老吉田東洋の執政方針を批判する若手藩士たちが城下の道場に集まって議論を続けた。表向きの沈黙は保たれているが、内部の亀裂は深まりつつある。
経済鹿児島湾岸の天保山砲台に、集成館で鋳造した試作鉄砲二門と、琉球経由でラニエルから前払いで取り寄せた洋式砲架一式が据え付けられる。砲の口径は西洋規格に満たないが、砲台としての体裁は整い、島津斉彬は砲術師範を招いて試射を命じた。
政治加賀藩主前田慶寧、水戸斉昭の密書を受け取りながらも「軽挙妄動は藩を滅ぼす」として家臣団に静謐を命じる。加賀は依然として幕府への表向きの従順を崩していないが、内部で情報収集を強化し始めた。
外交オランダ商館長クルティウス、長崎奉行に対して再度の覚書を提出し、「ペリーは来春より多くの艦を率いて帰来する見込みである」と警告した。覚書の写しは今回も一部が外部に漏れ、九州西岸の各藩へ伝わり始めた。
不穏福岡藩内の尊攘派藩士十数名が、長崎へ向かう外国人通訳の駕籠を街道で囲み、因縁をつけて追い返す事件が起きた。藩庁は即日これを厳重に詫びたが、藩内の統制が緩みつつあることを内外に示した。
政治西郷吉之助、江戸滞在の最後に薩摩藩江戸屋敷へ戻り、一橋擁立工作の成果を書面にまとめて鹿児島へ向け早飛脚を発つ。尾張・越前の各家が内心では一橋派に傾いていること、しかし公言するには至っていないことが報告された。