1600年 関ヶ原

クロニクル

第0ターン · 1600年8月30日水曜日

創刊慶長五年七月、秀吉亡き後の天下は東西に裂れ、徳川家康は会津征伐の兵を転じて西上の構えを見せ、石田三成は大坂にて毛利輝元を総大将に戴き挙兵す。両陣営はいずれも「秀頼公の御為」を称え、譜代・外様を問わず諸家は書状と人質と婚姻の糸に引かれ、去就いまだ定まらず、九州・東国の辺境もまたこの争乱の波を免れず。

the powers徳川家: 関東二百五十七万石の主、徳川家康は会津討伐の軍を西へ返さんとし、本多・井伊ら歴戦の家臣と福島・黒田ら豊臣恩顧の諸将を率いて東海道を進む。

the powers豊臣家: 大坂城に七歳の秀頼を擁する豊臣家は、淀殿の差配の下、いずれが勝つとも表立たず、二百二十万石と大坂・堺の富を背景に天下の名分を握る。

the powers毛利家: 安芸など中国六カ国百六万石を領する毛利輝元は西軍総大将として大坂城西の丸に入るも、吉川広家の密使が東方に通じ、全軍を一戦に賭くるを好まず。

the powers上杉家: 会津百二十万石の上杉景勝は直江兼続の強硬なる返書をもって家康挙兵の口実となし、今は自領の防備を固めて独自の戦を構える。

the powers前田家: 加賀など八十九万石を領する前田利長は徳川に与し、北陸の西軍方諸城を討たんと軍を進める構えなり。

the powers小西家: 肥後宇土二十万石のキリシタン大名小西行長は三成と固く結び、畿内に四千の兵を率いて西軍に馳せ参じたり。

the powers伊東家: 日向飫肥十二万石の伊東家は主君病にて大坂にあれど、家中は東軍に傾き、島津の弱みに乗じて旧領回復を狙う。

the powers島津家: 薩摩・大隅五十六万石を領する島津家は兵一万千五百を擁し、いまだ旗幟を鮮明にせず、琉球への宗主権主張と日向の伊東との境を抱える。

your standing島津家は薩摩・大隅の二国五十六万石を保ち、兵一万千五百・民二十七万五千を数え、東に日向の伊東家が旧領回復を窺い、南方の琉球王国は貢納と服属の要求をなお拒み続けており、政情は五十八分の安定を保っている。西軍と東軍いずれの旗を掲げるか、あるいは両属のまま時を待つか、天下の帰趨が定まらぬ今、貴家の決断は遠い九州にあってもなお軽からず、琉球との関係、伊東との境、そして本国よりの去就の催促がそれぞれに貴家を異なる方へ引く。

島津家の治世に記録された年代記. この号のすべての出来事は、シミュレーションによってその場で書かれました。
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