1560年 戦国乱世

クロニクル

第50ターン · 1561年5月19日金曜日

経済清洲城の林秀貞ら評定衆は尾張・美濃両国の郡代官および関守へ触書を下達し、東山道・東海道・美濃路における私関・津料徴収を全面撤廃させるとともに、京枡と統一木尺を各宿場・湊・市場へ配備して度量衡を統一した。

戦争佐々成政ら馬廻衆は清洲・岐阜の射撃場にて鉄砲足軽へ早込を用いた二段交代斉射の反復調練を展開し、実戦における装填時間の半減と斉射間隔の短縮を定着させた。

政治観音寺城代の佐久間信盛と副城代の村井貞勝は、日野の蒲生定秀・後藤賢豊ら宿老衆と合議の上で在地国人らの山論・用水訴状を公正に裁決し、南近江における日常の裁判・差配慣例を織田主導で定着させ始めた。

政治織田信長は岐阜出立と清洲・那古野・熱田着到の触れを下達し、馬廻衆を率いて清洲城へ入御しつつ、今井宗久の着岸を迎える熱田湊の受入れ本陣と街道警固の最終点検を命じた。

政治織田家の伴類が堺・京洛・阿波へ潜入して十河一存毒殺の松永久秀首謀説や公方様の討伐御内書の風説を一斉に流布したため、三好一族・重臣間の猜疑心が急浮上し、松永久秀は洛中御所や自邸の警固を過剰に固めて緊張が走った。

外交遠江井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠道)は酒井忠次の勧誘に応じて松平元康へ起請文と人質を差し出し、天竜川以西の国人領主らは相次いで今川から松平へ寝返った。

外交河内を失陥した畠山高政は紀伊の根来寺・雑賀衆のもとへ身を寄せる中、堺商人筋からの玉薬調達の風聞に接して再起の意を固め、反三好勢力の糾合と河内奪還へ向けた軍勢再編に方針を転換した。

織田家の治世に記録された年代記. この号のすべての出来事は、シミュレーションによってその場で書かれました。
あなたの歴史を書く
Orbis Alterni · AIグランドストラテジー・サンドボックス