クロニクル
戦争今川義元、鷲津・丸根を落とした後、本隊を桶狭間山北麓の窪地に進め、床几を据えて昼餐を取る——斥候の報告により、信長はその位置を正確に把握した。
政治信長、清洲城を夜明け前に出陣する前に熱田大宮司へ願文を奉納し、「敦盛」を舞う——境内に集った三千の兵の間に奇妙な静けさが満ち、逃げ腰の者も踵を返した。
戦争信長、午後に入って急変した天候——雷雨と強風——を利として桶狭間の窪地へ奇襲を敢行、今川本隊は態勢を立て直す間もなく崩れ、今川義元は松井宗信・毛利良勝の手に討ち取られた。
戦争義元の首が信長の陣に届くと、今川の二万余の将兵は指揮系統を失って東へ潰走し、鷲津・丸根に残していた守備兵ごと尾張から退いた。
外交信長の密使、桶狭間の報が届く前夜に稲葉山城下へ潜入し、斎藤家重臣へ「今川が敗れたる暁には互いに兵を収むべし」との起請文を提示した——斎藤方は回答を保留した。
政治今川義元横死の報は三日のうちに京へ達し、足利義輝は三好長慶の館へ使者を飛ばして意向を問うたが、長慶は床に伏したまま返答しなかった。
政治今川の後継を巡り今川氏真が駿府城に入るも、遠江の国人衆の間に動揺が走り、引馬城主飯尾連龍が独立の動きを見せ始めた。
戦争上杉謙信、信濃の支配を固めるべく川中島方面へ偵察部隊を送り込み、武田方の越山備えを確認——本格的な衝突には至らなかった。
戦争毛利元就、尼子晴久の抵抗が続く出雲へ兵を進め、月山富田城の兵糧路を一本断つことに成功した。
不穏加賀の本願寺門徒衆、隣国越前の朝倉家が徴税使を坂井郡の一向宗寺内に送り込んだとして騒擾を起こし、使者を追い返した。
政治北条氏康、桶狭間の報を受けて今川氏真へ速やかに弔問の書を送りつつ、三国同盟の存続を確認する使者を別途派遣した——北条にとって今川との縁は東の守りである。
政治島津貴久、北の伊東・相良と小競り合いを続けながらも薩摩国内の検地を進め、兵農分離の端緒となる指出検地の試行を始めた。
戦争長宗我部元親、土佐中村の豪族本山氏の所領へ兵を出し、長浜城を三日で攻め落として西土佐への足がかりを得た。